思いがけず、長い休暇になりました。歳の所為か、なにもかもスペイン語からPCの上場の仕方まで忘れていて、あたふたしました。少しずつ慣らし運転で上場するつもりですのでよろしく。
休み中は、日本全国で異常気象原因の災害が起き、亡くなられた方も多数あり、ご冥福を祈らずにはおられません。
おまけに世界のあちこちで(日本も含め)昆虫媒体の伝染病が流行したりで、落ち着いて居られません。小生は先週、バスに乗る間際に蜂に刺されました。直ぐ気が付いたので振り払って、針も残らなかったのですが、いつまでもヒリヒリしています。蜂はスズメ蜂ではなかったのですが、都会の真ん中にもいるのに驚きました。皆さんもご注意下さい。
休み呆けを治して、少しずつ上場するのに慣れて行こうと思っています。間が空いてもご叱責のないようにご寛大に願います。それではよろしく。 楽人
: 探戈楽人様
いつも貴サイトを拝見させていただいております。ところで、ガルデル週間として(2013/06/20)の貴コメントに時期が随分ずれましたが、小生の意見を述べたいと思います。
生れた年も生れた場所も分っていません。
『生まれた年は1881年11月21日。誕生地:ウルグアイ、タクワレンボー(Erasmo Silva Cabrera 説)』
また、1935年6月24日亡くなったのは、飛行機事故で明白ですが、
『原因は伏せてありますよね。ところがガルデルのギター奏者ホセ・マリア・アギラールが証言しています。 イサベル・デル・ヴァージェが雑誌「カンシオン・モデルナ」に語ったアギラールの証言は:
『アルフレッド・レ・ペラはボゴタ最後の公演でカルロスをボリーバル広場の野外で歌わせた。音響装置の無い時代の事ゆえ、後方の観衆はガルデルの歌が良く聞こえず、騒ぎを呼び起こした。この出来事でガルデルはレ・ペラに悪感情をもった様で彼と訣別する決意をしたらしく、その事で機内で口論になった際にレ・ペラが行き成り拳銃を発射した。 銃弾はパイロットの後ろ首に命中。 機はコントロールを失い、右前に離陸待機中のマニサレース号に衝突炎上したのである』それは事故後一年目の1936年7月の雑誌にインタビュー記事として載つたのである。
その遺体(当時は土葬)がどこにあるのかも明確でありません。(大きな説は2つですがね)。隠したい人がいるなら、それでもいいかなと思いますが…知りたいと言う思いも…これも人情でしょうか。
『ガルデルの遺体は未だにメデジンのサン・ペドロ墓地にある。またはメデジンから陸路ブエナ・ヴェントゥーラに行く途中で紛失した。チャカリータの遺体はコルパ・モレーノの物と思われる』
『』内の文は小生の意見です。
お久し振りです。ガルデルに関してのご意見、小生も殆ど異論はありません。アルゼンチンの人々の無念の思いが色々と問題をさくそうさせているようですね。
ただ、ふと気が付いて1994年のLa Magaの「タンゴへのオメナヘ」編を引っ張りだして見ました。これはタブロイド版の冊子でアルゼンチンとウルグアイで売られているものです。
その辺りの性格から、内容もにもウルグアイのタンゴのページがありますが、そのガルデルの部分の小見出しに「ウルグアイの人々の為に彼はタクアレンボで生れた、そしてブエノス・アイレスが彼のアーチストの祖国になった」とあります。そして本見出しが「ガルデルは、正真正銘リオプラテンセ(ラ・プラタ河周辺の住民)」となっています。
ま、両方の国で売ろうとすると、この辺が限度なのかと思って読み直しました。小生は、もう判らなくてもいいやという気分です。歳の所為ですかね。
とにかく、正面からのご意見、ありがとうございました。 楽人