楽人先生よりユーザー様からお問い合わせがあったとのことでご回答いたします。
※3月3日現在当サイトでは解決されたケースですが、他サイトでも活用できる手段ですので、今後のためにQ&Aコーナーにアーカイブしておきます。
サイト更新が行われた場合、うまく表示できない原因の一つとしてお使いのブラウザのキャッシュ設定が関わっている場合があります。キャッシュとは以前表示したページを記憶しておき、同じページを開いた時に新しく読み込まずに記憶したページを表示する機能です。昔、ダイアルアップなどの低速回線が一般的だった頃少しでも速くページを表示するための技術ですが、それが悪さをして古いページが表示され、リンクがうまくいかなくなることがあります。
キャッシュが原因で不具合が起こっている場合は、新しいページを開いた時に「F5」ボタンを押すことで、古いページの記憶が消去され、新しくページを読み直してくれます。また、毎回不具合がある度に「F5」ボタンを押すのが面倒な場合は、ブラウザの設定を変えて、常に最新のページを読み込むことも可能です。ADSLや光回線・WiMAXなどの定額高速回線をお使いの方におすすめです。
インターネットエクスプローラーの場合は、以下の方法で可能です。
Internet Explorer 4.x の場合
- [表示] メニューの [インターネット オプション] をクリックします。
- [インターネット一時ファイル] の下の [設定] をクリックします。
- 「ページを表示するごとに確認する」をクリックし、[OK] を 2 回クリックします。
Internet Explorer 5 以降の場合
- [ツール] メニューの [インターネット オプション] をクリックします。
- [インターネット一時ファイル] の下の [設定] をクリックします。
- 「ページを表示するごとに確認する」をクリックし、[OK] を 2 回クリックします。
参考リンク:常に最新のページを開く
以上の方法でも表示できない場合は、ブラウザのバージョンアップを試して見るのも一つの方法と思います。
参考リンク:インターネットエクスプローラ8 Internet Explorer 10
以上簡易的な方法ですが、ご参考まで。
ガルデルの週刊に当たり彼のルーツを探り当て見ようと思います。
アルゼンチンではガルデルの生れはフランス,トゥールーズとされている。処が彼の芸能才能にはフランス文化の遺伝的影響が全く無い。一方のウルグアイは彼の少年期から郷土民謡を歌いパンパに放浪の挙句にパジャドール達と親交を結び詩や歌にたしなむ環境に育んでいる。またタクアレンボーのカウディージョ(地方政治のボス)であった彼の父親とされるカルロス・エスカジョーラ大佐はギター演奏と民謡を歌い,挙句の果てに本格的な劇場まで作りオペラを楽しんだ。だからガルデルは彼のそうした趣味や才能を受け継いでいる。当然,ウルグアイが“彼の出生地”はわが国だと強力に主張しているのは一理有ると思う。ではソルサル・クリォージョのルーツを探るとしよう。先ず彼の誕生地ウルグアイも牧場が広がり放牧された大群の牛とガウチョとフォルクロール音楽の世界がある。そして首都モンテビデオはブエノスアイレスにも負けずにタンゴも盛んである。そして隣国アルゼンチンと同様にヨーロッパ移民を多く受け入れた国である。ところがガルデルもその移民の血を引くガウチョの世界から誕生したといきなり言われると不釣合いな違和感に襲われるだろう。彼の出生地はウルグアイ北部タクアレンボーの農園であるが。先ずは祖先のルーツを追っていくとスペインのカタルーニャ地方バルセローナ出身の祖父フアン・エスカジーラに行き着く。その祖父フアンは1838年23歳の時,ウルグアイにやって来る。彼は大都市バルセローナ海岸地方西部20kmのサバデジェニンセス(サバデリ地方人)の石灰手工芸家一門エスカジョーラ家系に属していた。彼の職業はバルセローナで訓練された船大工であった。(マサッゲー街道のベントゥーラ店においてエスカジョーラ陶工達の物だった巨大なセラミック窯が最近発見されている。)偉大なタンゴ歌手カルロス・ガルデルは『スペイン,サバデリ出身のある一人のエスカジョーラ家系の孫』であった事になる。ずっと後年になるが...その血の繋がった祖国,家系由来の土地で彼は数年に亘る滞在を完璧に享受した上にそのバルセローナで凱旋を選ぶ。これらの理由によりカルリートスがいかにこの地への本能的に愛着を示していたのは理解できると言うものだ。それは百万倍も確信的な事実である。
これもガルデル週間に寄せてのコメントです。ガルデルフアンに贈るメッセージです。
ガルデルはあの呪われた飛行機事故から生き延びていた?...
これは誰も信じえない事実!!!
アルゼンチンではこの貴重な情報を得られるのは不可能だろう。小生の居る所はコロンビアなのだ。メデジンの飛行機事故は78年前の今日6月24日現地時間午後3時頃(日本時間25日の午前5時)に起きた。“あの時に焼死”したとされて「世に別れを告げた事になっていたガルデル」。ところで彼の遺体は財産管理人デ・フィーノの手により偽装された遺言書を介してサン・ペドロ墓地から発掘された。そして,メデジンからカリ市を経由して太平洋側に位置するブエナベントゥーラ港へ運ばれた後,そこから海路パナマ運河を経由後ニューヨークに到着した。後日にかの地の教会で通夜が壮大に開かれたが。その時参列したガルデルの友人や映画に共演した俳優達は遺体を礼拝した時に,ガルデルの遺体の歯形に疑問を持った人物がいた。その人は音楽家ドン・マジョ氏で他にも数人が確認したらしい。このガルデルでは無いらしい遺体は1936年2月にチャカリータ墓地に着き,盛大に行なわれた葬儀の後に理葬されたのだが,前提のデ・フィーノは翌年(1937年)に再びメデジンに出向きサン・ペドロ墓地からもう一つの遺体(誰の遺体?)をガルデルが理葬されていたとされる墓地(a)から運び出した摩訶不思議な行動をしている(アントニオ・エナオと名乗る新聞記者が目撃していた)。 ガルデルの遺体は何処に?...こうした謎に包まれたチャカリータ墓地のソルサルの遺体は本物では無い疑問が髣髴してくる。この同じ頃にバルビエリとリベロール,レ・ペラの遺体も墓霊から取り出され,それらはそれぞれの遺族によりブエノスに移された。この時に秘書アザフの遺体は発見されなかった不思議。初めに運び出されて遺体はアザフのものと墓守が混同したのでは無いのか,二度目に発掘した遺体は誰の物なのか。謎は明かされないまま長い時が過ぎて,80年代の頃にサダイクがガルデルとベルタ夫人のDNA分析検査(b)を試みたが,如何な判定結果が出たのかジャーナリストには公表されていない。余りにも時が過ぎ今となっては土壌化して検査は困難だ。そして,この謎は絶対に世には明かされる事は無いだろう。アルゼンチンではガルデルは“フランス人”という固定観念で認められているから,これを覆す訳には行かないのである。しかし「ガルデルはメデジンの郊外に80歳頃まで生きていた」との新聞記事を見掛けた事もあったが余り信憑性がないと判断していたのだが...!。
しかし,ガルデルは確かに生きていたのでる...
注記//(a):サン・ペドロにあったガルデルの墓地。現在,墓標は残っていない。1995年に博物館として落成の記念碑があるのみである。(b):ガルデルとベルタ夫人とは血の繋がりが無かった事は証明されているのでDNA分析は不可能だろう。
El Bohemio 記