ガルデル週間として

お気づきかも知れませんが、16日からガルデルが歌った歌や、ガルデルを称える歌を載せています。

それは、6月24日が、ガルデルの祥月命日だからです。溜まっていたガルデルが歌った歌と、ガルデル賛歌を少し連続して載せています。

後数日載せる予定です。もう、あまりガルデル絡みのリクエストが無くなって来たことにもよりますがね。時代は、変っているんですね。

ガルデルも、あれほど有名なのに、いや有名だからか、生れた年も生れた場所も分っていません。また、1935年6月24日亡くなったのは、飛行機事故で明白ですが、その遺体(当時は土葬)がどこにあるのかも明確でありません。(大きな説は2つですがね)。

また、どの本も、あまり触れたくない様で、明確に書いたものもないようです。(こっちが見逃しているのかもしれません。)

隠したい人がいるなら、それでもいいかなと思いますが…知りたいと言う思いも…これも人情でしょうか。

それでは、この数日、ガルデル関連の歌詞にお付き合いください。

 

 

 

載せるべきか載せざるべきか

今日の母ものは、ずっと以前から載せずにおいたものです。それは、今は亡きタンゴの先輩たちが、「そんなの載せたら、またタンゴ嫌いが増えるから止めろ」と言っていたからです。

でも、自分が聴いた曲とリクエストが合致した時は、載せようとやってきたので、敢えて載せました。この曲は1928年(昭和3年)に作られ歌われたものです。当時のこととご寛容に願います。

これを聴いた時、小生に浮んだのは「星の流れに」という菊池章子が昭和23年に、映画「こんな女に誰がした」で歌った歌です。特にこの3番の中の「飢えて今頃 妹はどこに…一目会いたや お母さん…」を思い出しましたのです。

1946年(昭和21年)にGHQ命令で公娼制度が廃止され、遊郭などがなくなり、その代替えのように、赤線が生れて2年目の映画でした。その後、1958年(昭和33年)に売春防止法が施行されて、赤線もなくなったのが、わが国の歴史ですね。

その30年前の、ブエノス・アイレスでの出来事。大目に見て下さい。なお、今回の母の日記念の母物シリーズは、後2曲です。その他の訳は、10月のアルゼンンチンの母の日の週までお待ちください。それではよろしく。

 

plantelの意味について

最近、あるタンゴ関係の資料の中でplantelという単語に引っかかりました。前後の文脈からするとタンゴ楽団のメンバーを意味しているようですが、手元の辞書には「苗床、養成所、保育園」とあり、意味がまるで通じません。todotangoのサイトのルンファルド辞書には「フットボールクラブが利用のために配置する競技者、名手」といった説明がありますが、音楽とは関係なさそうです。plantelがタンゴ関係で何を意味するのかお教えください。

“Vida Mia”はずばり「我が人生」でよいのではないでしょうか?

“Vida Mia”の訳はずばり「我が人生」でよいのではないでしょうか? 歌詞内容は自分の人生を大草原の1本の道を歩む自分にたとえているように思えます。そして重要なのは歌詞の最後の部分で、大草原に日が暮れるというのはまさに人生の終わりを意味していると思われます。日が沈むと星が現れ始めるというのは自分の周囲の人々が次第に世を去ってゆくことであり、最後は自分も星の1つになる=自分の死で終わると考えられます。とするとこの曲は言われているように甘美な歌ではなく、実は非常にシリアスな内容であり、それ故にアルゼンチンの多くの歌手が取り上げており、アルゼンチンの人々にとっては心の歌になっているのではないか、 そして多くの歌手が最後の部分を歌っていないのは、まさにそれが「死」を意味しているからではないか、と私は思いますが、いかがでしょうか?

サバトのタンゴ

今日、中庭に上場したタンゴの作詞者はエルネスト・サバト。説明に書いたように、アルゼンチンを代表する作家の一人です。

彼が、自分の長編小説の主人公の一人だけを抜き出して、タンゴの歌詞を作ったことに驚くが、考えてみると、サバトは長編を出した後に、その補完的な短編や随筆を書いていることが多いので、そんな流れの一つかと思っています。

なお、発表年を考えると、サバトと対照的な文筆家とされるホルヘ・ボルヘスが、前年の1965年、作曲家、演奏家のアストル・ピアソラと歌手・表現者のエドムンド・リベロと組んでEL TANGOという組曲を出しています。これは書き下しですが。

そのことがサバトを刺激して、1965年の「ラバジェの退却と死」のフォルクロレの詩の朗読や、1966年の「アレハンドラ」のタンゴに繋がったのかとも思います。ま、下司の勘繰りかもしれませんがね。ふと想像を掻き立てられて…。

なお、レサマ公園は、近年タンゴの野外演奏会などが行われていたが、今でもやっているのだろうか。その意味で懐かしい名前であった。

 

やっと喉の骨が取れて

まだまだ暑い夏が続いていますが、お元気ですか。

昔(?)のタンゴ・ミニ通信の頃から、喉に引っ掛かったような疑問がありました。それは、1933年、純アルゼンチン製の長編映画「タンゴ」の中の一つの曲についてです。その中で23曲のタンゴが演奏されているのですが、その内の21曲目でリベルタ・ラマルケが歌う曲の題名が不明だったことです。

ラマルケがレコードを出していなかったことや、当時から近年に至るまで目にした亜国の映画の本でも、題名不詳になっていたので、ミニ通信では、題名不詳にしていました。

それが数年前に、友人からシリアコ・オルティス楽団でカルロス・ラフェンテが歌っているエストリビジョを聞かせてもらい、どこかで聞いた曲だなと思っていましたが、直ぐには映画と結びつきませんでした。

丁度その頃、フワン・アンヘル・ルッソという人の編纂したタンゴ集を頂戴して読んでいた処、Noviecitaと言う曲に出会い、それがリベルタ・ラマルケが映画で歌った曲であり、カルロス・ラフェンテの歌がその1連だということが分ったのです。

その後、リクエストもなく、延び延びになって来ましたが、今朝上場して見ました。目下、映画のその部分を聴きながら、長い間、不明のままにして来た、喉の骨が取れた思いです。

例によって、小学生の作文的直訳ですが、ご判読頂ければ幸いです。

追記:上場後、中庭散歩者から連絡があり、本体の歌詞の題名が昔載せた別の題名になっていました。早い時間にご覧になった方はAmor te cantoの題名を見られたと思います。ご免なさい。今は訂正済みです。それでは、よろしく。

 

 

広島67年目の原爆の日

毎年のことだが、また原爆の日が来ました。楽人が中学校1年生の時のことだから、何かがないと亡失して暮しています。

その償いもあって、近年、この日には、必ず聞くアルゼンチンの曲があります。それは、Hiroshimaと言う名が入っている2曲です。

Las voces de los pajaros de Hirosima(広島の鳥の声)歌:ヒナマリア・イダルゴ。El 45(1945年)歌:スサナ・リナルディ。

後者は、歌詞の中に広島の名があり、原爆の悲惨なニュースがあり、私たちと同じ15歳の少女たちが大勢死にました、と言う意味のことが掛れています。(中庭に上場してあります。)

前者は、原爆の落とされた広島の上を飛ぶ鳥の声を歌っているものです。フォルクロレ畑の女性歌手のせいか、タンゴファンからが、まだこの歌のリクエストがないので上場していませんが。

その他にも、題名か歌詞に広島の語の入った曲があったら、ご教示下さい。

今朝の上場は、別に考えた訳ではないのですが、Japonesita(可愛い日本娘)になりました。芸者が登場しますが、この他にも、トリオ・モレスのMi geisha triste(私の悲しい芸者)(元歌は古賀政男作の「青い背広で」という芸者入りの曲があり、リクエストを受けていますが、聞き取り出来ない部分があり、果たせないでいます。この欄を借りてごめんなさい。